松岡正剛の旅考長濱 9|石道寺

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観音の歩み出したる足指の先、石道に染み入る村人の祈り。
 
 己高山麓にある真言宗豊山派の寺。神亀3年(726年)延法上人が草創し、その後、延暦23年(804年)に伝教大師が再興したと伝えられている。本尊の十一面観音像は欅の一木造り。平安後期の作と伝えられ国指定の重要文化財である。山中にあった旧境内が荒廃し、大正4年に本堂、厨子並びに十一面観音を含む諸仏を現在の場所に移し終え、今もなお村人が静かに守り続けている。長浜市は数多くの観音菩薩が点在していることから「観音の里」と呼ばれている。昭和46年5月から1年間、朝日新聞紙上に連載された井上靖の小説『星と祭』で広く知られるようになった。
 
 -大体、十一面観音を守ってる土地の人たちがいいね。
 -あの人たち、ほんとにいいいでしょう。
 -素朴で、優しくて、ああいう美しい心を持った人たちが、
  この世にはまだ居るんだね。
  『星と祭』井上靖
 
 初日の近江孤篷庵に続き、観音ガールこと合同会社nagori代表・近江ARSメンバー、對馬佳菜子さんの仕立てによる。石道寺は小さな丘の麓にある。松岡さんは息を鎮めながらゆっくりと坂道をのぼり、木立の中に佇む小さなお堂に入る。
春は新緑、夏は紫陽花、秋は紅葉と美しい境内は村人たちによって整備されている。
装飾が少なく、いかにも集落のお堂といった感じの素朴な佇まいの観音堂。
 石道寺の世話方・池田寿視(としみ)さんにお話しを伺う。
 
池田「この観音さんは現石道寺から少し山のうえにいらっしゃいました。石道寺は己高山五箇寺の一つで、室町時代には大変栄えていました。織田信長の焼き討ちで大変な時代がありましたが、村人が観音さんを谷に運び藁や木の枝で隠して焼失は免れました。明治維新の廃仏毀釈により石道寺は衰退し、現在は無住寺です。湖北は観音道といわれ、福井の若狭から湖北を通って奈良、京都の中央政権にむかって大陸文化が流れていきました。しかしこの村は行き止まりゆえに通る人は誰もいない。大正4年に村人が運んできて以降、十一面観音さんはここで長く静かに私たちを見守ってくださっていました。」
石道寺の世話方を務める池田寿視さんはユーモアたっぷりのお話。
松岡「この辺りの廃仏毀釈は宮崎県ほどは強くはないと思いますが、それでも大変だったでしょう。己高山(こだかみやま)は山岳宗教の中心的霊場ですから、牛頭信仰に混じって観音信仰になっていったんでしょうね。」
十一面観音を勇ましくも、どこか少年の面影をもつ持国天(向左)と多聞天(向右)が守護する。
格子をあけ、陽の光にあたると観音さんはより一層美しいと村人たちは言う。
 明治維新における「神仏分離」と「廃仏毀釈」(はいぶつきしゃく)の断行は、取り返しのつかないほどの失敗だった。いや、失敗というよりも「大きな過ち」といったほうがいいだろう。日本を読みまちがえたとしか思えない。「日本という方法」をまちがえたミスリードだった。
 日本をいちがいに千年の国とか二千年の歴史とかとはよべないが、その流れの大半にはあきらかに「神仏習合」ないしは「神仏並存」という特徴があらわれてきた。神と仏は分かちがたく、寺院に神社が寄り添い、神社に仏像がおかれることもしょっちゅうだった。そもそも9世紀には“神宮寺”がたくさんできていた。
 
池田「この観音さんは若い娘さんのよう。八頭美人で腰が締まっています。また唇には紅が残っていて、1,000年間、全く触れていないそのままの状態。右足の親指を少し上げておられ、いまにも助けにいくぞという慈悲の心があらわれています。装飾も豪華なものでインドから伝わってきたといわれています。胎内は空洞で、1万体の大日如来の印仏がおさめられているのが見つかった。一人一躰、願いを込めたのではないかと思っています。子授け観音としても信仰を集めています。黒塗りの厨子は鉋(かんな)もない時代に削ってつくった大変古いもの。厨子の両脇に立つ多聞天と持国天は、目が玉眼だったため鎌倉時代のものと言われていましたが、調べたところ後に目だけ入れ替えられたものと判明し、十一面観音とほぼ同じ平安時代のものとわかりました。長い間、村人だけの観音さんでしたが、井上靖さんの小説『星と祭』で有名になり、大勢の観光客が来られるようになって、村人が当番制で対応するようにしています。」
本尊十一面観音の白い肌に朱色の裳裾と唇が娘さんのようである。
白く柔らかな足指が上がり、今にも蓮華座から降り立ちそうである。
ギィと厨子の扉が音を立て、十一面観音は姿をあらわす。
 観音はね、サンスクリット語ではアヴァロキテシュヴァラ(ava-lokita-svara)というんです。なんともすばらしい名称だけれど、もともとはどういう意味をもっているのかというと、接頭辞の ava は「離れて、遠く」という意味でね、lokita は「光る・輝く」の lok から派生していて、これは「見る、受けいれる」という意味になっている。ということは、ここまでで、「離」をもって見る、その光景を受け入れるということなんだね。(中略)しかも、これで話は終わらない。次の svara は「響く」の語幹が変化したもので、声とか音という意味になるわけだ。ということは、ね、ava-lokita-svara とは、「離」をもって遠くに響きを見て受け入れるとなって、それを縮めれば「遠くに音を観る」となるわけです。それゆえ「観音」とか「観世音」とかと漢訳できることになる。だから観音は、遠い音でも聞きとどけてくれるイコンなんです。それを「音を観る」ともみなした。なんだか世阿弥(118夜)の「離見の見」を思わせもするよねえ。
 
「この集落の景色は、大正生まれの祖母から聴いていた昔の農村の景色と重なってみえたんです。私は、観音さんが好きですが、それだけでなく、その土地の人たち、そして集落全体を見るようにしています。」溢れる仏愛がとめられず、東京から「観音の里」長浜へと居を移して5年。お堂の中で観音さんとたっぷりと時間を過ごした後、對馬さんが「これぞ湖北」とこよなく愛する集落の小道を松岡さんとともに歩く。
元々村人たちが利用してきた参道をゆく。
「違う場所で育ってきたからこそ皆さんに近づきたいと思う。」と言う對馬さんに「對馬さんからにじみ出てるね。」と松岡さん。
今も土蔵が残り、家々の間を縫うように続く小道。
 「観音さんは優しく語られることが多いが、本当はもっと厳しいものを背負っておられるように思う。どうしてこの地域には十一面観音が多いのかなあ。對馬さんの「馬の道」説は面白いね。」散策をしながら松岡さんがつぶやく。
 對馬さんは、以前、松岡さんが「湖北は南の都ばかりではなく、北陸、若狭・越前のことも考えなくてはならない」と話をされていたことを覚えている。「舞鶴、高浜などの若狭地方から湖北へかけては馬頭観音の古像が点在している地域で、まさに丹後街道から若狭道そして塩津街道の導線です。私は勝手に「馬の道」と思ってます。湖北の馬頭観音としても一括りではなく、街道から文化圏の違いが見えてきます。」そして「都への行き来を担っていた丹後街道、鯖街道と五里半越えから湖上交通のことをもっと深堀したい」と言う。
 
 松岡さんの千夜千冊第910夜『神仏習合』は、この一文で終わっている。
「聖林寺の十一面観音だけでなく、仏像を見るときは、それがどこから旅をしてきたかということを見なくてはいけない。」
 
※取材日2022年4月16日現在、拝観休止。
 
 
旅日時  |2022年4月16日(土)
 
旅考人  |松岡正剛
近江ARS |福家俊彦、福家俊孝、川戸良幸、村木康弘、三浦史朗
      横谷賢一郎、加藤賢治
 
仕込み衆 |竹村光雄、冨田泰伸、對馬佳菜子、橋本英宗、川瀬智久
仕立て衆 |中山雅文、和泉佳奈子、中村裕一郎、中村碧
 
文章   |渡辺文子
写真   |新井智子
写真説明 |對馬佳菜子
 
収録   |伊賀倉健二、亀村佳宏、小川櫻時
 
 

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