松岡正剛の旅考長濱 4|菅浦の湖岸集落・大音集落
湖路にて中世息づく惣村に降りたつ。
尾上港から奥琵琶湖西の小さな入江に船で向かう。沖合のエリ漁を過ぎた頃から波が静かになる。神の島・竹生島の厳かを背に、船は葛籠尾崎を大きく回り込む。湖面の青が静かな色に変わったその奥に、桜色が残る山に抱かれた菅浦集落が視界に広がる。菅浦は中世供御人の拠点となった村だ。大正時代に集落の氏神「須賀神社」から発見された「菅浦文書」には、鎌倉時代から江戸時代に至る集落の営みが記されており、大浦との堺相論を通して特に住民の自治組織「惣」を中心とする中世村落の暮らしぶりを具体的に伝える歴史的に高い価値をもつ文書として2018年に国宝に指定された。集落への交通は船のみで、長らく陸の孤島と呼ばれていたが、1996年に道路が開通している。2014年には国の重要文化的景観として選定された。白洲正子が「かくれ里」と紹介したことにより広く知られるようになった。
この日は、菅浦「惣村の会」会長の柳原治男さんが案内してくださった。
松岡 「25年ぶりだ。菅浦にはどうしても“水”から来たかった。琵琶湖は水の神様。菅浦はまるで瓢箪(琵琶湖)の上で鈴を鳴らしているみたいだ。」
柳原「惣村は独立したひとつの国。領主におさめる年貢も家々の状況を考慮しながら自分達で決めていました。その時代、領主は自分達の村を守ってくれる存在でした。しかし竹生島が領主になったとき、菅浦にとって有益なことはしてくれなかったので、菅浦はその年の年貢は治めなかったということが古文書に残っています。自分達の国は自分達で守らなければ生きていけない時代でした。」
松岡「自立するためには守護地頭に与さないという姿勢が必要だった。“接して漏らさず”、交流はするが肝心なことは言わない。供御人がヒエラルキーを超えて外から守り、内では村掟をつくる。このような自治体力が日本の原型を作っているのではないかと思います。」
柳原「寛政2年、大浦荘山田で盗賊事件が起きました。山田に行商に行った菅浦の若者が盗賊として何者かに殺されたのです。しかし、盗まれたものもなく証人も確認できないため、菅浦若衆は山田に対して報復を働きました。その後、大浦と菅浦は法廷で裁かれます。当時は熱湯の中に手を入れて火傷の有無によって裁く湯起請(ゆきしょう)が行われていました。菅浦側の被害者当人が殺害されており、母親の老婆が代役となりました。老婆の手が大きく爛れたため菅浦が敗訴となりました。菅浦を消滅させようとする松平氏率いる近隣地域の討伐軍により菅浦は完全に包囲されました。老人、若者、女性、みんなで村を守りましたが、火をつけられて全員討ち死にを覚悟したその時、塩津の地頭・熊谷氏が仲介に入り、下手人として菅浦の二人が代表して身を差し出して謝ったのです。熊谷氏がその場を治め、菅浦は滅亡を免れました。そんな時代でした。」
松岡「なるほど。日本人は全員が菅浦のことを語れなくてはならない。歴史学者の網野善彦さんは「今日の日本を解明するには13世紀の日本を知る必要がある」と菅浦に注目して、菅浦文書を徹底的に研究していました。網野さんは、まさに、訴訟を「治める」という手法を重視されていて、そこを復活させようとしている。いまの日本はコンプライアンスばかりで、大きな民主主義の中で裁くでしょう。しかしここはそうじゃない。湖北はそれがずっと育っているので、ぼくは好きなんです。
「惣」は、戦闘的な集団です。呉座勇一の『一揆の原理』にも詳しいが、一揆は一座建立で精神的な結束で立ち上がるもの。その動きを神社仏閣が神人・供御人とともに応援する。クーデターだが、上下のアナザーが結びつきながら一揆をおこしていく。菅浦文書の解読によりその実在がわかってきましたね。」
柳原「言い伝えは沢山あるそうなのですが、ここの住民は淳仁天皇を祭神として日々拝んで暮らしてきました。神社の御像は淳仁天皇自らが榧(かや)の木を用いて御身並び后妃の肖像を彫って残され、「私がこの世を去っても神霊は必ずこの肖像に留め置くように。そして私の形見として祭るように。」といわれたとされています。そのため、祭神に奉納し、榧の木の伐採を禁じ、火に投じてはならぬと伝えられています。信仰するという気持ちがあるからこそ、50年ごとに行う淳仁天皇法要の祭りは1250年も続いてきました。」
松岡 「菅浦は、ARS(another real style)のモデル中のモデル。淳仁天皇こそARSです。延暦寺と園城寺の戦いが菅浦に飛び火してきた。なぜ、この小さな村にリアルとバーチャルが混在し、160年もの長い時間、大浦と戦いを続けてきたのか。そこが鍵だ」
柳原「今では、お店も土産物屋も民宿もなくなりましたが、昔ながらの暮らしがそのまま残っていることが貴重なのです。家屋は100戸ほどありますが、現在暮らしているのは56戸、住人は130人程度、小学生は1人、保育園児も一人。過疎化しているが、景色は作ったものではなく、ここに残り味わえるもの。昔からの生活が、今後もずっと続いてほしい。開発はしてもらわなくていいのです。人の心に菅浦が残っていたらそれでよいのだと思っています。」
そこで最近は“惣深層の暴走族”でありたいと思うようになった。それも「絆」や「縁」のために伴走するためだ。称してさしずめ「深層圏暴走族伴走派」とでもいうものだ。このような気持ちがはたして一揆に似ているのかどうかは、わからない。だいたいこれからどんな“晩年”にしようか、いっこうにまとまらない。いま実感できるのは、世のラディカル・ウィルの持ち主を応援していきたいということ、また勇気あるリプリゼンテーション(表現)を試みている諸君を応援していきたいという、ただそれだけのことだ。だから、一揆でないとも言えないだろう。とはいえ、ぼく自身がやりのこしてきたことも、かなりある。いろいろあるが、なかでやり遂げてみたいのは、ぼくなりに考えてきた「仮説」をいくつも提示しておきたいということだ。これ、“仮説一揆”とでも名付けたい。
かつて村の結界として設けられ、今も東西二カ所に残る「四足門」に腰を下ろす。近江ARSメンバー・對馬佳菜子さんが菅浦をふりかえりながら松岡さんに感想を聞いた。
最初にでた言葉は「いまの日本はダメだ」だった。「日本は一系統だけでは考えられない。淳仁天皇、神人・供御人は中世文化の“One Another” だ。日本は常に“One Another”を作り続けていた。菅浦にはそれがあった。アウトサイダーが歴史を作っていたのに、今はほとんどが排除されている」と息を荒くした。
つづけて「観音もいざという時には戦う。そのために三十三変化する。変化、変わり身が大事なのに、いまの日本にはこうせねばならないという変化、進化がない。世界中が同じように進化し、グローバルなスタンダードによって変化している。それが気に入らない。」と今の日本を嘆いた。近江の“One Another”をどうつくるか、どう変化していくか。近江ARSの重要なお題となった。
その後、菅浦集落を跡にして大音集落の丘峰喫茶店へ。湖北の発酵食を味わいながら、長濱在住の近江ARSメンバーとさらに深い近江談義が続いた。
追伸ー約25年前の菅浦訪問より
金子郁容・下河辺淳・松岡正剛の共著『ボランタリー経済の誕生―自発する経済とコミュニティ』の視察旅行では、中世の供御人集落・菅浦や、近江「町組」の伝統を残す長浜市を訪れ、日本史にひそむボランタリー・ネットワークのしくみを検証した。
梅棹(忠夫)のルーツは湖北の菅浦だったのである。梅棹家の初代当主の儀助は文政4年に近江国伊香郡の菅浦村の重任として生まれた。天保年間に京都に出て大工になったようだ。西陣の家々の普請をしてそこそこ評判がよかったらしい。梅棹はその儀助から数えて第4代の当主にあたっている。(中略)網野善彦(87夜)グループの詳細な研究もある。ぼくは白洲正子(893夜)の『かくれ里』で、この秘境ともいうべき村の面影を知った。そんなこともあって、あるときぼくも下河辺淳、田中優子(721夜)、金子郁容(1125夜)らを誘って、ゆっくり菅浦を訪れた。長浜から竹生島へ、そこから船で行くしかない村なのである。梅棹はこの菅浦をルーツとしていたのだった。なるほど、なるほど、何かが急に腑に落ちた。梅棹という奇妙な苗字も水軍に関係する「棹」だったのであろう。
旅日時 |2022年4月15日(金)
旅考人 |松岡正剛
近江ARS |福家俊彦、福家俊孝、川戸良幸、村木康弘、三浦史朗
横谷賢一郎、加藤賢治
仕込み衆 |竹村光雄、冨田泰伸、對馬佳菜子、橋本英宗、川瀬智久
仕立て衆 |中山雅文、和泉佳奈子、中村裕一郎、中村碧
文章 |渡辺文子
写真 |新井智子
写真説明 |對馬佳菜子
収録 |伊賀倉健二、亀村佳宏、小川櫻時