近江ARS 第3回「還生の会」のダイジェスト
行きつ戻りつ蘇える
2022年12月21日、第3回目となる「還生の会」が開催された。初回の「日本仏教の見方」、第2回目の「国家と宗教―最澄の目指したもの」に続くテーマは「草木は成仏するか?ー日本仏教の自然観・人間観」。ありったけの五感で草木成仏論に迫る一日となった。
【はじめに】リアル/バーチャルを跨ぐ ―――松岡正剛
三井寺の草木と陰陽五行にちなむ五色の布が来場者を迎える。数日前に三井寺の山中から切り出された木々は、自然の植物から抽出された色と馴染み、新たな命を生きなおす。五色布は「染司よしおか」6代目の吉岡更紗が、先代の吉岡幸雄がライフワークとして再現した『源氏物語』五十四帖から選び抜いたものだ。
開会にあたり、近江ARSの名付け親、松岡正剛は「リアル/バーチャルが問題になっている昨今こそ、仏教を問い直す必要がある」と力説する。インドで生まれた仏教は、中国で漢字になり、日本に入ってきた。仏教者こそ、リアル/バーチャルを行き来してきた。「ここ(日本)」に居ながら、「むこう(インド・中国)」に想像を巡らせ、中国の漢字を日本的なボーカラゼイションに読み換えのだ。「ボーカラゼイションはもちろん、アート、お花、お茶、お能、建築物、色、染、ファッション、あらゆることが仏教には関係ある。この会もそのようにしていく」と言い切った。
【第1部:語り】草木は成仏するか?―日本仏教の自然観・人間観 ――末木文美士
松岡からバトンを受けた末木が、最初に紹介したのは『日月四季山水屏風(じつげつしきさんすいずびょうぶ)』(天野山金剛寺蔵)だ。日月(太陽と月)が仏教的な世界観、四季が日本的な自然観をあらわしている。平安時代の日本では、それまでの歴史書の六国史(りっこくし)の編纂が、勅撰和歌集に取って代わった。それは国家運営の中核に、和歌のもつ自然観、すなわち、四季(春夏秋冬)の移ろいを置いたということだ。日本人の自然観は、仏教にどう影響したのか。
「日本的な仏教は、安然(あんねん)に始まる」。天台の大学者でありながら、貧しいまま死んでいった安然を「私の理想の人物」と吐露した末木の口調がいっそう熱を帯びる。中国の草木成仏では、悟りの主体はあくまで衆生(しゅじょう)であり、衆生に付随して草木も成仏できるとする。対する安然は、一草一木がみずから仏性(ぶっしょう)を持ち、悟りを開くことができるとした。この考えが「この世界そのものが既に悟りの世界である」という「あるがまま」の本覚(ほんがく)思想へとつながっていく。
一見すると現世肯定や退廃にいきそう「あるがまま」だが、中世後期から、この本覚思想が民衆の活気になっていくというのが末木の見方だ。日蓮の法華経解釈を伝えるとされる『御義口伝(おんぎくでん)』には「我等衆生は親なり。仏は子なり」とある。それまでの「仏こそおおもと」という考えが逆転を起こし、「我々衆生にこそ悟りの根本がある」と日蓮信徒が活気づいていく。同時期の京都の町衆文化の活況の裏にも日蓮信仰があった。江戸初期には、鈴木正三が士農工商それぞれの分に与えられた役割を積極的に果たすことが仏行そのものと説いた(『万民徳用』)。
本覚思想が、単純な現状肯定に留まらず、衆生に「我こそが実践者」と信仰の勇気を与え、現世における積極的な活動を生んでいった。一連の話を終えた末木の顔には、今日も解明途上にある本覚思想の歴史的意義を更に深めんとする覚悟が漲った。
一口では言い切れない「あるがまま」の奥深さに胸と頭を高鳴らせた面々に、切り株見立ての和菓子「冬ざれ」と「三井寺茶」が振舞われた。設えの草木を求めて三井寺山中の行脚した「叶 匠壽庵」の和菓子職人の芝田冬樹は、木々の生命力を菓子に凝集した。三井寺近くに住まう茶人の堀口一子は、遠出が憚られるコロナ禍のある日、三井寺山中で茶の木と遭遇する。500年ほどの年月を経ているだろう茶葉が生む味わいは「次の世代にまで継いでいかねば」。茶の木に突き動かされるかの如く、今ここで茶を淹れる。山が育んだふくよかな香りが、一同の身体を通っていく。
【第2部:伝え】自分の外へ「聖」なる世界からの眼差し ―――福家俊彦
松岡とともに足を運んだ来場者を労い、会の冒頭で「日本文化の根幹には仏教がある。研究に留めずに、それを形にしていく」と宣誓した三井寺長吏の福家俊彦が、二人目の登壇者である。
「犬が犬でなくなる限界まで写し込んでいる」と、森山大道による有名な犬の写真を最初に示した。「こういう写真を撮る人は、別の眼をもっている。でないと、この犬には出会えない」。続いて、サルトルによる『嘔吐』の有名なシーンをとりあげた。主人公のロカンタンが公園のベンチに座っている。と、いつものマロニエの木から、言葉、意味、使用法、符号が消え去る。ついに、ただの塊となってしまう。主体と客体の境い目が消え、対象と自己が無くなった瞬間、やっと世界の本当の姿が見えてくる。「草木が成仏する」も然り。世界を見る眼が日常のままに留まっていると、そうは思えない。
松尾芭蕉の「松の事は松に習へ」。芭蕉にとって、前者の松と後者の松は違うものであるはずだ。「習うと云(いう)は、物に入(いり)て、その微の顕(あらわれ)て、情感(かんず)るや、句となる所也」。「情感る」は、主体である自分を消して「無」、「空」になる状態。「真如(しんにょ)」、「仏性」にも等しい。この状態に至ると、日常とは違う松の姿が見えてくる。福家は、更にメープルソープ、セザンヌ、円空、道元、良寛、明恵上人と「別」な見巧者を列挙していく。草木成仏の眼差しは、洋の東西を問わない。どのように見るか次第なのだ。
【第3部:巡り】声明の掛け合いに耳を傾ける ―――四季移ろう勧学院にて
日が没するなか、それぞれが足下を気遣いながら、一同で勧学院客殿(国宝)へと向かった。通された一之間には、正面の大床の滝絵を中心に、四季の花々の移ろいが部屋の四周に描かれている。天才絵師・狩野永徳の長男で、繊細優美な作風を旨とする狩野光信の筆によるものだ。
ここに前代未聞の声明(しょうみょう)の掛け合いが幕開けた。天台声明のなかでも独特の音調を相承してきた三井寺、真言声明の流れを汲んで口伝により継承してきた石山寺。どちらも仏法の真髄に通じる修行として位置づけられてきた。
一曲目は、三井寺による「供養文(くようもん)」。法会を営むときに唱えられるものだ。続いて、双方により「四知讃(しちさん)」、「散華(さんげ)」が唄われる。同じ言葉でありながら、異なる節回し。同時に聞くからこそ、味わえる違いだ。最後は、石山寺による「對揚(たいよう)」で場が締めくくられた。仏教がいつまでもこの世に留まり、人々を守護することを祈る偈文(げぶん)である。
目と耳と心を祈りの調べに傾注するひとときは、束の間、参加者たちに寒さを忘れさせた。「狩野光信の『四季花木図』に描かれている自然の前で声明をお届けしました。音は消えていくものだが、声明は昔から師資相承で伝わってきた。奇跡的なことです」。企画者かつ演奏者の石山寺座主の鷲尾龍華が語った。
【第4部:交わし】鼎談 松岡正剛、末木文美士、福家俊彦
末木が第1部で語りきれなかった本覚思想の来し方・行く末を辿ったのち、鼎談は現代における仏教の可能性へと及ぶ。「もっと仏教を使って、アートや学習やポップカルチャーを語っていい」と言う松岡に、福家も「今日は仏教用語を使わないことにチャレンジした。普通の日本語で仏教を語りなおしたい」と応じる。資本主義の用意した有用性・経済性一辺倒の現代人には、時として理解されないこともある。末木も福家もそのような場面に出くわしてきた。松岡は「そもそも、そういう者は相手にしなくてよい」と断罪する。「二人のほうがずっとラディカル。仏教で堂安のシュートを語って、経済や民主主義では語りきれぬものがあることを示せばいい」。会場から大きな拍手が沸く。
残された僅かな時間を惜しむように話題が「死」や「性」に及ぶ。まだ仏教が十分に語りきれていない領域である。「仏教と性の問題をジェンダーといった西洋の言葉ではなく、我々の内側から出てくる日本の言葉で語ることができれば、顕ではない冥の世界から湧きあがる力を得られるはず」と日本中世文学研究の第一人者田中貴子が期待を込める。
【第5部:名残】湖北の山と湖が満ちる
シャギリとともに神輿があらわれた。稲穂、ヒノキ、クマザサ、南天、ハラン、コゴミ。湖北の草木が花を添える。土色の器におにぎりが鎮座し、鮮やかな野菜と小鮎のへしこが間を彩る。三井寺に古くから伝わる精進料理「ほろかべ」も添えられた。豆腐、人参、栗、銀杏、きくらげが混ざり合い、素朴で優しい味わいを醸す。鮒ずしの吸い物もほっこりを付加する。湖北の山と湖(うみ)の命をいただく時間である。
極めつけは、奥伊吹山系の伏流水と地元の酒米を木桶で仕込む冨田酒造の「七本槍」。近江賤ケ岳の戦いで名を馳せた七人の武将に由来する縁起の酒が、集った面々の胸襟を開く。おにぎりの米は、この「七本槍」の酒米を育てる「お米の家倉」のもの。湖北の地だから醸し出せる「地の味」にこだわって米づくりをしている。
時間の経過とともに、表舞台とは別の景色があったことが明かされていく。この日の昼過ぎから、長浜衆は米の釜炊きの支度を進めていたのだ。スピーカを通して水屋に届く登壇者による語りが、仲間と近江の恵みを押しいただく我が事と重なり、一段と支度の手を動かしたという。幾人もの手を経た温もりも滋味となり、参加者の心と身体を満たしていく。共に過ごした者同士で、今日の体験を言葉にしようと、一刻も会話が途切れない。
山の中腹の寺の夜は、想いの外、深まるのが早い。人々が立ち去った後も、場には笑顔と再会を誓う言葉が、幾度となく去来し続けた。「還生」には、バーチャルに行きながら、もう一度リアルに戻って往生するという意味が込められている。場に集った誰しもが、身体まるごとで「ここ」と「むこう」を行き来し、生き還りを果たした。
●出演
松岡正剛
末木文美士
福家俊彦
●企画・進行
和泉佳奈子 中山雅文
●空間構成・設営
三浦史朗 福家俊孝 芝田冬樹 横谷賢一郎 中村裕一郎
西坊信祐 角克也 堀田忠則 中西敬介 飯田剛 森下孝志
●空間演出
●空間演出
吉岡更紗(染司よしおか)
●受付
川戸良幸 中山郁 迎垣翔
●オンライン配信
中村裕一郎 難波久美 園村健仁
●供茶
堀口一子
●和菓子提供
芝田冬樹(叶 匠壽庵)
●声明企画
鷲尾龍華 福家俊彦 福家俊孝
●声明演奏
三井寺 龍泉院・福家紀明 弥勒寺・久世円寿 圓陵寺・中原賢明
石山寺 石山寺・鷲尾龍華 医王寺・安田秀悟 雅祥院・久木崇央
●名残企画
竹村光雄
●湖北料理提供
竹村光雄 家倉敬和 家倉愛 川村好平 七尾うた子 野本育恵 堀江昌史 横山和司
●酒提供
冨田泰伸(冨田酒造)
七本鎗 木ノ環 木桶仕込生原酒
七本鎗 純米大吟醸 渡船
七本鎗 純米 玉栄
●米提供
家倉敬和(お米の家倉)
●器提供
七尾うた子
●三井寺精進料理提供
福家博子
●お配り・誘導
加藤賢治 柴山直子 對馬佳菜子 三宅貴江 田中眞一
●記事作成
阿曽祐子
●記録撮影
伊賀倉健二 亀村佳宏 小川櫻時 勝山義徳 田村泰雅
●広報協力
京都新聞 中外日報社
●会場
三井寺事務所
●プロデュース
百間
●主催
近江 ARS